臨済宗とは、曹洞宗・黄檗宗とともに日本三大禅宗の一つです。禅の教えを広めるだけでなく、茶道や芸術、芸能の世界にも大きな影響を与えました。
今回の記事では、臨済宗についてご紹介致します。
臨済宗とは
臨済宗は、中国禅宗五家の一つで唐の時代の臨済義玄(りんざいぎげん)を開祖とします。日本には鎌倉時代初期に栄西により伝えられ、曹洞宗や浄土宗・浄土真宗・時宗・法華宗と共に鎌倉新仏教の一つに数えられます。宋に渡来し、臨済宗黄龍派の印可を受けた栄西は1195年に日本最初の禅道場である聖福寺を博多に建立しました。その後1202年、鎌倉幕府2代将軍・源頼家の支援を受けて、建仁寺を京都に建立するなど鎌倉幕府や朝廷の庇護を受けながら禅の教えを広めていきました。特に武士社会においては、坐禅が剣の修行の一環とされ、広く支持されていくことになります。鎌倉後期に導入された五山制度(鎌倉五山・京都五山)のいずれもが臨済宗の寺であることでも分かるように、臨済宗は鎌倉幕府だけでなく室町幕府においても保護され、政治の世界と深く結びついて発展していきました。また、栄西が宋から持ち帰った茶の種を植え寺で栽培を始めたことで茶が日本で栽培されるようになったとも言われており栄西は「茶祖」とも呼ばれ、茶文化の基礎を築きました。その他にも、臨済宗は水墨画や能、建築など、中世の文化に非常に大きな影響を与えています。戦国時代から江戸時代にかけて、臨済宗は曹洞宗や黄檗宗と比較すると衰退していく傾向にありましたが、江戸時代中期に白隠が禅を体系化して確立し、大衆にまで臨済宗を広めていきます。白隠は中興の祖と称され、坐禅の折に読誦する「坐禅和讃」を著しました。現在の臨済宗は、妙心寺派や建長寺派など14の宗派に分かれています。宗派の本山のある京都や神奈川・静岡・山梨などに多くの寺院があります。
臨済宗の教えや特徴
臨済宗では坐禅によって悟りを得るという「自力」によってこそ浄土へつながるとされています。ひたすら坐禅をし、誰でも備えている尊厳で純粋な人間性を悟る事でお釈迦様と同じように人の尊さを実感できるという教えです。臨済宗の坐禅は「看話禅」と呼ばれる人と向かい合う対面形式です。「看話禅」は「公案禅」とも呼ばれ、師が弟子に問題を提示し弟子は単純に頭で考えて答えを出すのではなく身体全体で精神統一して、理論を超えた禅の精神を究明していきます。臨済宗では特定のご本尊は定められていませんが、一般的には「釈迦牟尼仏」を本尊としてお祀りしています。縁によっては、薬師如来や観世音菩薩、文殊菩薩などをお祀りしている寺院もあります。
- 読まれる経典
- 「般若心経」「大悲呪」「観音経」
- 「白隠禅師坐禅和讃」「宗門安心章」
- お唱えする念仏
- 「南無釈迦尼仏」
臨済宗は「お釈迦様の悟りは言葉では表現できない」という考えで特定の経典を定めていませんが、「般若心経」や「金剛般若経」「観音経」などがよく読まれます。繰り返し唱えることはありません。
- 数珠のかけ方
- 手に持つ際は一重の大きな輪をひとひねりし、
- 二重の状態にして親指が左手の人差し指の上になるようにおき
- 房を垂らして握るようにします。
- お参りする際は、手を合わせてお参りします。
- 焼香のあげ方
- 使用する線香の本数は1本だけ立てます。
- 臨済宗の焼香の回数は3回の場合もありますが、1回の分派が大多数を占めます。
- 香炉の前で一礼した後
- 右手親指、人差し指、中指で焼香をつまみ、
- 一般的にお香をつまんだ手を額まで押しいただきません。
- 臨済宗の行事
- 臨済禅師忌
- 百丈忌
- 達磨忌
- 成道会
- 開山忌
- 仏壇の飾り方
- 中央にはご本尊として釈迦牟尼仏をまつることが多い
- 両脇は各派で違いがあります。
- 妙心寺派の場合は右に開山の「無相大師」の絵像を
- 左に「花園法皇」絵像を飾ることが多いようです。
- ※臨済宗には多くの分派があり飾りかたに相違があります。
ご本尊についてはこちらで分かりやすくご紹介しておりますので併せて参考にしてください。
葬儀の特徴
臨済宗の葬儀は「亡くなった人が仏の弟子となり、修行の道に入り、自分の仏性に目覚める儀式」という意味をもちます。臨済宗における仏性とは言葉による理解を超えたことを理解できる能力のことです。
- 山頭念誦
- 故人が成仏できるように「往生咒」を唱えます。シンバルのような形をした金属製の妙鉢と呼ばれる仏具や太鼓などを鳴らします。
- 引導の儀式
- 引導の儀式の経の後半では導師が「喝」と叫びますが、これには亡くなった人の現世に対する未練を取り除き、仏の世界へと誘うという意味があります。そのほか、引導の儀式では、松明に見立てた先が赤い棒を回し投げます。正式には本物の松明を回し投げるそうです。この儀式には未練を断ち切ったり、煩悩を焼き尽くしたり、悪霊を払うという意味があるそうです。